宮城県 気仙沼のサメ物語 気仙沼市HPより

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アブラザメ
※水揚げされたアブラザメ(気仙沼市HPより)

 気仙沼市では、目前に世界三大漁場の一つである三陸沖漁場を控え、多種多様な魚が水揚げされています。

特に、サンマ、カツオ、サメ等は、日本国内有数の水揚げを誇る港町として全国に知られており、新鮮な魚介類などの、「食」を目的とした観光客も数多く訪れています。
その中でも、日本一の水揚げを誇るサメは、国内で水揚げされる90%が気仙沼港で水揚げされており、「サメの水揚げ日本一のまち」として、また、「フカヒレ生産日本一のまち」として、全国でその名が知られています。

■サメの歴史

 気仙沼でフカヒレ製造が始まったのは江戸時代の末ごろです。当時、市内で商売を営んでいた店の主人が毛皮を取引していた横浜に行った際に、フカヒレが商売になることに気付き製造販売を始めたといわれております。取引の主力は、神戸で清国(中国)との貿易を仲介していたバイヤーでした。その後、明治時代まで中国への輸出は飛躍的に伸びました。
 明治末から大正にかけて、底刺し網にアブラツノザメが大量に混獲されるため、これを水産加工品の原料として活かそうと、サメ肉を利用した「竹輪」や「蒲鉾」を中心とした練り製品が盛んになりました。特に「竹輪」は気仙沼が発祥の地とも言われており、生産の機械化を進めながら、気仙沼の名産品として全国を席けんしました。当時の宣伝文では、「他府県(の)追従を許さざる気仙沼の竹輪かまぼこ…」と誇らしげにその生産能力をうたっています。明治43年の記録には、150もの蒲鉾店が東京などに出荷していましたが、その後は度重なる気仙沼での大火の影響やアブラツノザメの資源枯渇、さらには、薩摩揚げや、食生活の洋風化による魚肉ソーセージなどのライバル製品に押され、次第に練り製品の主役の座を空け渡すこととなります。
 サメの利用は練り製品の原料にとどまらず、サメの種類によっては、肝臓からビタミンAなど豊富に含む油が獲れるため、戦前から物資不足の戦後にかけては、栄養補給用の肝油などの原料として、また、戦時中は機械油(潤滑油)など軍需素材としても活用されていました。
 また、サメ皮も貴重な資源として利用されています。
 今でこそ、丹念になめされた財布やバックなどのサメ皮製品の原料となっていますが、戦時中は、統制品として専ら牛や、馬の皮の代用とされました。中国での戦線拡大で軍の皮革需要が増えたこともあり、サメ皮は国の統制によって買い付けが一本化されていたようです。現在のような高級品とまったくかけ離れたものだったかもしれません。

■サメの水揚げ

 現在、気仙沼港に水揚げされるサメは、ヨシキリザメ、ネズミザメ(モウカザメ)が主体です。圧倒的に多いのはヨシキリザメで、全体の約80パーセント、次いでネズミザメ(モウカザメ)が約15パーセントでこの2種が水揚げ量のほとんどを占めます。なぜ気仙沼に多くのサメが水揚げされるかというと、気仙沼では近海マグロの延縄漁業が盛んであり、そのマグロとサメが混獲されるからです。さらには、気仙沼はフカヒレをはじめ、サメを原料とする水産加工業が盛んなことから、混獲ザメの積極的な受け皿港として、他の市場より良い値が付くのも水揚げが多い理由の一つです。

 市場に水揚げされたサメのヒレはすぐ切り落とされていき、サメの加工場へ運ばれ乾燥作業に移ります。特に、冬の時期には空気が乾燥するため、フカヒレの天日干しは寒風にさらすのが良いとされており、乾燥期間は3ヶ月にも及びます。天日干しの風景は気仙沼を代表する冬の風物詩です。
 フカヒレは主に首都圏に出荷され、一部は中国や香港など国外への輸出も行っています。
※その他、詳しい内容は下記HPでご覧下さい。
※ 気仙沼市HPより
〒 988-8501宮城県気仙沼市八日町一丁目1番1号

※関連記事:ネズミザメ(地方名:モウカザメ) 
※関連記事:北海道の苫小牧漁港で引き揚げられたヨシキリザメ、体長は2m

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