知床のシャチ スパイホップでしっかり人間観察 SankeiBiz(サンケイビズ) 2015年6月15日

スポンサーリンク

知床のシャチ スパイホップ

※目の前に浮上し、こちらを観察するシャチ。知床半島羅臼沖。奥は知床岳=2015年6月1日、北海道(伊藤健次さん撮影)

 まるで水中からロケットが飛び出してきたようだった。


 知床半島羅臼沖。海面すれすれの船尾デッキに立ち、カメラを水中に入れて撮影を試みた時だ。目の前の海面に1頭のシャチがスーッと浮上してきた。白黒の小さな丸い口先が浮き上がるごとにみるみる膨らみ、やがて両手で抱えきれぬほど太い頭が海面を割って姿を現した。


 スパイホップ。シャチが海上に顔を出し、その目で外の様子を偵察する行動だ。


 思わずのけぞり見開いた僕の目と、妙に小さなシャチの目がパシッと合った。こちらが見ているだけではない。完全にシャチに“見られている”と思った。


 これまで何度もスパイホップをするシャチと遭遇してきたが、これほど近くで、シャチに観察されていると感じたのは初めてだった。


 「あなたは誰? そこで何しているの?」


 僕にはその視線がそう問いかけているように思えてならなかった。飛び切りの好奇心の持ち主は、しっかりとヒトを観察し、再び時間を巻き戻すように海に沈んでいった。


 その日は1年に1度あるかないかという、絶好のチャンスだった。前日の午後、知床連峰からの出し風で大波が立ち、激しい水しぶきをあげて帰港した。幸い昼すぎに波は収まり、空は快晴。沖に出ると、澄んだ空気のかなたで、山の新緑と残雪が鮮やかなコントラストを描いている。


 初夏の羅臼沖には多数のシャチが集まるが、この日現れた30頭ほどの中に、とてもフレンドリーな一群がいた。2頭の母子はじゃれ合い、他のシャチも船を嫌うことなく並走している。そして時折、白い噴気が船にかかるほど接近しては、その巨体で乗客を驚かせた。いつか来る。僕は浮き沈みする背びれに目をこらし、ひたすら船尾にシャチが寄る時を待った。


 知床が世界自然遺産に登録されて今年で10年。ちょうど登録の年からウオッチング船の運航が始まり、羅臼沖では約350頭ものシャチの個体識別が進んでいる。毎年その何割かの群れがこの海域に入ってくるが、どんな家族構成なのか、姿を見せない群れはどうしているのかなど、まだまだ謎は多い。


 そして観察や撮影は、海とシャチのご機嫌次第だ。波が立てば船は欠航。夏は根室海峡特有の海霧で視界が効かないことも多い。天気に恵まれても、国後島との間の日露中間ラインの内側に姿を現してくれなければ手も足もでない。また大きな雄は大抵、船から距離を取る。


 だから撮影では船を警戒せず、むしろ好奇心を持つような群れとの出合いが大前提。僕はシャチが水中を自由に泳ぐ姿を何とか写したいと機会を狙っていた。だがつれなく素通りされたり、不意を突かれて千載一遇の機会を見逃したり、あろうことか撮影したカメラを引き上げる際に海中に落としたりと、もう何年も歯がゆい思いを抱きながら海に出ていた。


 チャンスはいつも唐突に訪れる。後方にいたシャチの群れがスピードを落とさず船尾に向かってきた。あたふたとデッキに降りると、丸く輝くシャチの頭や、いくつかの背びれが波を切ってぐんぐん近づいてくる。ここぞとカメラを水中に差し込み、祈るような気持ちでシャッターを切った。するとどうだろう。その群れは素通りせず、1頭のシャチは僕の足元でうろうろ泳ぎながら、興味津々という感じでカメラをのぞき込むではないか。そして近くにいたシャチが突然、前述のスパイホップで浮上し、僕と対峙(たいじ)したのだった。


 時間にすればわずか数秒。だが接近すると畏怖するような圧迫感を覚えることが多かったシャチに、初めて不思議な親近感を覚えた。人がシャチに興味を持つように、シャチも船や船上のヒトさえ意識して生きている。そう実感した瞬間だった。


 願いを込めて引き上げたカメラに、わずか数カット、シャチの姿があった。その体にはたくさんの傷が刻まれていた。波を透過して揺らめく太陽光がその傷痕を勲章のように浮かび上がらせ、シャチが海で過ごしてきた日々を静かに語っていた。(写真・文:写真家 伊藤健次/SANKEI EXPRESS)


■いとう・けんじ 写真家。1968年生まれ。北海道在住。北の自然と土地の記憶をテーマに撮影を続ける。著書に「山わたる風」(柏艪舎)など。「アルペンガイド(1)北海道の山 大雪山・十勝連峰」(山と渓谷社)が好評発売中。

スポンサーリンク
関連